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檄壇サークル

相撲界とプロレス〜闇に包まれた八百長ベールを剥ぐ〜

プロレスが正式に筋書きのあるショーとカミングアウトされたのは米国のWWEで、日本では元選手や関係者、レフリーが暴露はしたものの、団体は公式には八百長とは認めてはいない。もっとも、今では小学生でもモンキー・ビジネス、八百長ショーであることは理解しているのであるが。日本には元力士の力道山が輸入したプロレスだが、ショーであるプロレスをガチンコ好きの日本の風土に合わせ真剣味を装った似非スポーツとして紹介した功罪は今、考えると大きいように思う。

当時は今では信じられないことかも知れないが、プロレスはガチンコのスポーツとして扱われていたことがあり、NHKや朝日新聞に試合結果の記事が報道されていた時期もあった。
それほど、当時のプロレスは真剣味があるスポーツとして国民に受け容れられていたことが拝察される。確かに当時のフィルムを見ると技も基本でオーソドックスが中心で、今のような派手でクサいオーバーアクションもほとんど無く、スポーツとしても十分、鑑賞に耐えられる要素が強かった。

観戦する側も最初は戸惑ったのは想像に難くない。恐らく相撲をベースにしたのであろう。そうしてプロレスの見方は整えられていったわけである。つまりガチンコとして見る錯覚、誤解が生じたのである。そのことが後のプロレス界に様々な軋轢を生むことになっていく。

真剣勝負を装っていても所詮は打合せの上で勝敗が決められていたわけである。そうした矛盾点が時間を経るごとに大きくなり、試合内容も不自然な点が生じ、さすがに識者の大人の眼を誤魔化しきれなくなった。マスコミはプロレスはショーと判断、一般紙では記事として取り上げることがなくなっていったという時代の変遷がある。

先日のNHK-BSで放映された「ネパールのプロレス物語」はネパールの地とは言え、プロレスの核心に触れていて興味深かった。プロレスの筋書き(シナリオ)や試合前のリハーサルがテレビカメラの前で公開されたのはこれが史上初ではないだろうか。筋書きの書いたノートを見ながら試合の組み立てを考案する選手たち。「ここで乱入して観客を盛り上げる」と細かに演出プランをノートを見ながら選手の口々で練られ試合の筋書きをまとめていく姿は、ネパールを「日本」に置き換えればプロレスの本質を見事に言い当てた番組であったと言える。

力士が八百長を認め激震が走る相撲界だが、これまで何十年、疑惑に包まれて来たことか。いや八百長と相撲は表裏一体の関係であった。相撲界とプロレス〜闇に包まれた八百長ベールを剥ぐ〜_d0162901_12304577.jpg
星の貸し借りは少なくとも昭和の時代からあり、先のプロレスに転向した力道山が相撲を廃業した裏にも、自身の国籍問題から年寄り株が取得ができない人種差別と、兄弟子たちとの星の貸し借りの不平不満が蓄積していたと言われている。年寄り株、部屋制度、封建的徒弟制度といった相撲界を覆う反近代的組織形態が八百長の温床であるのは間違いない。

狭い特異な村社会で生きる力士には相互互助会のシステムは必要に駆られ誕生したという。落語の人情話(横綱・谷風が幕下・佐野山にわざと負ける)として語られるように、自分が勝ち越していれば相手力士の窮状を慮り、自ら土俵を割る行為(人情相撲・片八百長と呼ぶ)は責められるものばかりではない。それがいつしか金銭(しかも大金)が介在してからおかしな方向へと向かって行ってしまったわけである。しかもその蜜を求め暴力団が割り込んで来てからは坂道を転がるように堕落・退廃の一途を突き進んで行ってしまったのはスキャンダルが耐えない今の相撲界が物語っている。

面白いデータがある。過去1年間の取組記録で検証する限り、大相撲15戦で14日目に7勝6敗の力士は、95.78%の確率で勝ち越しという勝敗記録だ。統計学的にはあり得ない数字であることは言うまでもない。大麻所持で2008年に解雇された若ノ鵬も「75%以上が八百長をしている」と激白している。

付き人が支度部屋で申し出(八百長)の打合せをしている時代は墓場まで持って行く不文律の掟が相撲界にはあった。だから八百長の存在は外部に漏れることなく隠し通せた。だが今の時代、若い世代にはそれを求めるのは無理のようだ。メールに書かれた文章を見ても八百長に対する我が身の賭し方が根本からずれている。八百長は墓場まで持っていく相撲界の闇の掟に従う覚悟も自戒の念もなく、いや、そうした慣習も知らず、親方から伝承もされず途絶えているのであろう。発覚は時間の問題だった。だからメールでの生々しい八百長の注射の痕跡を突き詰められ、あっさりゲロし観念してしまったのである。まるでメールはDNA鑑定のようでもある。

元前頭・春日錦の竹縄親方、十両・千代白鵬、三段目・恵那司の3人以外は八百長関与を否定したというが、3人だけで八百長が組めるわけがないのは誰もが思うところである。相撲協会側が苦しいのは八百長の意味や誤解を恐れて、これまでの片八百長までも全否定する立場を貫く位置に立たねばならぬことであろう。そこから色々と矛盾が生じてきているのである。そもそも中盆・恵那司に最初に八百長システムを教えた先輩力士は一体誰なのか?そこまで追求しなければファンは納得するはずはない。

恵那司は「俺はとことん悪者にされている。だけども言いたいことがある。このままでは引き下がらねぇ。俺も悪いけど八百長をしている奴はいっぱいいる。何十人もいる」と反撥。確かに八百長は対戦力士との合意があってできる事。八百長の仲介役を務めたとされる恵那司は、裏の全てを知る立場でもある。

各マスコミの八百長4力士の争奪戦が始まっている。今、暴露本を出版すればベストセラーは間違いはない。特に中盆を仕切っていた恵那司には疑惑に包まれた力士達は戦々恐々という。対戦相手の八百長の様子を詳細に綴ったノートを保管しているとも言われ、相撲界を永久追放される八百長力士にとって暴露話をカネに替えることに何ら抵抗感はない。億単位の印税収入がフトコロに転がり込んで来るとあらば、飛びつくのも当然だろう。噂では八百長訴訟で敗訴しリベンジに燃える講談社が有力というがさて、どうなることか?

相撲は神・祭事、スポーツ、興行といった3つの顔を併せ持つ競技であり、故に国技という栄誉も授けられたのである。それが近年はスポーツ面ばかりが強調され、八百長=悪という図式がファンの間でも浸透し、片八百長も金銭が介在し出すようになってからはその性質も変容し、まして暴力団が賭博目的で介入し出してからは、ファンが八百長を負の側面しか捉えず嫌悪・拒絶する意識を持ち始めたのは仕方がない。

相撲に八百長はないと信じている者は皆無だ。4,000名を超える回答が寄せられたlivedoorネットリサーチの結果では八百長についてはあると「思う」とした人が98.4%、「思わない」とした人は僅か1.6%という数字であった。過去にも一切無かったと矛盾に満ちた、これまでの歴史にまで臭いまま封印してしまった相撲協会の立場は苦しいだけであろう。

逆説的だが相撲もプロレスのように八百長をカミングアウトして、ショーとしての道を磨くのも一考ではある。結果よりプロセスを見せるプロレスのように、支持者は少ないだろうが相撲もより厳しい鑑賞に耐えられるショースポーツとして再スタートを考えてもいいのではないか。見せるショースポーツであることは単純な勝ち負けだけの真剣勝負の世界より底の見えぬ深い部分があることも一方では事実である。

もっとも真剣勝負好きの日本人には相撲をプロレスと同一に見ることは許さないであろう。だが、ガチンコと八百長という相反するこの問題をここらでもう一度、じっくり考えてみる必要がありそうだ。

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by kokis01 | 2011-02-06 12:33 | 社会

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